小学校のときにはじめて「異様な気分の落ち込み」を経験して以来、定期的にやってくるその気分を、医者や薬のお世話にならずになんとかやり過ごしてきました。
自己診断ですが、おそらくうつ状態と躁状態を繰り返す「気分障害」というやつだと思います。
以下にまとめたのは、長年の自己観察で、気分が落ち込んだときに効果があったと思う行動や思考方法です。あくまで一個人の例として、読み飛ばしていただければ幸いです。
私自身、以下のような方法でやり過ごしてこられたのは、単に運がよかったからだと思っています。いよいよ自分ではどうしようもならなくなったら、潔くお医者さんのお世話になろうと思っています。
散歩する
散歩は身体のみならず、頭や心にも、とてもいい影響を与えると思います。意識して散歩するようになってから、私は気分の浮き沈みがかなり穏やかになったように思います。
気分の落ち込みというのは、私のイメージでは、閉じられた電気回路を信号が無意味にぐるぐる回って悪い熱を蓄積し、勝手にどんどん疲弊していく感じです。ですから、眼、耳、鼻、皮膚といった感覚器官を通じて外部の信号を入れ、閉じた回路を開かなければいけません。散歩をすると、様々な風景、雑踏、匂い、空気が、程よい強さで私を刺激してくれます。
心が軽くなると、頭もよく働くようになります。
散歩していると、脚が脳と直接つながっているような気がしてきます。考えよう考えようと頑張らなくても、脚を規則的に動かしているだけで、脳が自然に働いてくれる感じです。新しいアイディアを思いついたり、考えが具体化したりするのは、最近では決まって散歩の途中です。
頭が働くようになると、さらに気分が軽くなります。つまり、頭と心の相乗効果が生まれます。心が軽くなる、それで頭が働く、するとさらに心が軽くなる、そしてもっと頭が働く…。
この素晴らしいサイクルを少しでも長く体感したいので、私はできるかぎり長い距離を歩くようにしています。ただ、天気・体調・使える時間によって、歩く時間は毎日バラバラです。まったく歩かない日もあります。
「健康」のためには、毎日決まった距離を規則正しく歩いたほうがいいのでしょうが、散歩が決まりごとになってしまうと、「気分」にとっては負担となってしまいます。
条件が整わなければ歩かなくてもいい。私は「気分」のためにそう決めています。
酒を飲まない
お酒がもたらす酩酊状態は、落ち込んだ気分を紛らわす最も手軽な方法です。でも、体質にもよるのでしょうが、私の場合は必ず倍返しでその反動が来ます。ですから最近は、落ち込んだときは絶対にお酒をの飲まないようにしています。
厄介なのは、躁状態のときの飲酒です。
躁はうつの対極にある状態で、気分が高揚した状態のことです。私は長らく、自分のこの状態を良好な状態・調子がいい状態だと考えてきましたが、そうではないことを本で知りました。うつ状態と躁状態は表裏一体の関係にあり、気分障害はそのふたつを繰り返すのです。
思い当たるフシはありました。気分の山が高いほど、気分の谷は深くなります。大事なのは、うつ状態を脱して躁状態になることではなく、心の平穏、フラットな気分を保つことなのです。
気分が高揚したときのお酒は、さらに気分を高揚させます。もともと高揚しているので気づきにくいだけで、醒めたときにはやはり大きな反動が来ています。その繰り返しが、もともと落ち込みやすい心に影響しないわけはありません。
かといって、私にとってお酒のない生活も考えられませんので、自分の心とよく相談しながら飲む、という結論で今のところは落ち着いています。
食事に気をつける
数年前に人生2度目の「心の危機」があり、医者にかかる前に自分でやれることはやってみようと、うつや気分障害に関する本をたくさん読みました。その中にうつと食べ物の関係について書かれた本があり、実践してみることにしました。
その経験を踏まえて、あくまで私が「そう感じる」というレベルの話を書きます。
うつや気分障害は、脳内の神経伝達物質の減少が原因で、その増加の助けになる栄養を摂ることが重要だという説は、ある程度信じていいのではないかと思います。
基本的な健康のためにバランスのよい食事が大切なのは当然ですが、気分の落ち込みを和らげるには、やはり動物性タンパク質をしっかり摂るのがいいように思います。
私は田舎の生まれ育ちですので、若いころあまり肉を食べませんでした。独立してからも、なんとなく「肉食は健康に良くない」と思い込んでいて、好きだったのですが控えめにしていました。
しかし、気分改善のために食事を変えてみようと決めてからは、積極的に肉やチーズを食べるようにしました。
また、以前はあまり好きではなかったのですが、バナナもいいらしいということで、積極的に食べるようにしました。
それ以外に本で紹介されている食べ物は、ナッツやタケノコなど、私が子供の頃から好きだったものが多いことが印象的でした。
もしかしたら、脳がそれらを求めていたのかもしれません。
よく寝る
「心の危機」の時期、一日の気分の変化をノートに記録したことがありました。その結果、一日という短い時間でも、私の気分は頻繁に浮き沈みしていることがわかりました。
これは症状の軽重によると思いますが、私の場合は、気分が落ち込んでいるといっても、ずっと同じ状態ではないということです。
自己観察によると、気分がいちばん落ち込むのは、夜寝る前です。それで寝られなくなったり、眠りが浅くなったりして、悪循環に陥るのです。
ですから、気分の落ち込みを感じたら、風邪を引いたときのように、とにかく寝る・眠ることに集中します。
しかし、気分が落ち込んでいる人間にとって、よく寝るというのは難しいことです。私は寝付きは悪くないのですが、とにかく眠りが浅く、夜中に何度も目を覚まします。これは心の問題ばかりではなく、加齢による身体の衰えも原因だと思います。
いろいろ試しましたが、よく眠るための方法については、これというものを見つけることができていません。
単純作業をやる
これも「心の危機」の時期ですが、うつ症状には数字パズルの「ナンプレ」がいいと読んで、生まれて初めて購入してやってみました。
疲れない・嫌にならない程度にパズルを解いてから寝るのを、しばらくの日課にしました。寝る前に余計なことを考えるのを防いで、心を落ち着かせる一助にはなったと思います。
ストレスにならない程度のゲームや工作といった単純作業は、循環思考、しつこい想念を頭から追い出すのに役立ちます。
通勤電車の中でゲームをしている人が多いのも、そういう理由が大きいと思います。
いろいろやめる
気分転換に新しいことをはじめてみるという人もいるでしょうが、私の場合それを先にやってしまうと気分の荷物が増えてしまいます。
新しいことをはじめるより、やめられることを今すぐやめる。気分が落ち込んだときの私は、なるべくそうするようにしています。そうしないと、新しくはじめたことも、やめずにおいたことも、どちらも気分の負担になって、余計に調子が悪くなるからです。
人生やめられないこと、やめたくないことが多いですが、その理由を考えると、将来に対する漠然とした不安につながっていることが多いと思います。
将来は大事ですし、だからこその不安なわけですが、しかし、気分の落ち込みというのは、悪化すれば今すぐに自分を壊してしまうかもしれない、いわば「今そこにある危機」です。今の自分が壊れてしまえば、将来も何もありません。
そう考えて、私はやめることをネガティブに考えないようにしています。
自分を責めない
私の場合、気分がリミットを超えて異常なレベルまでに落ち込んでいることを自覚するいちばんの指標は、「罪悪感」を伴った記憶のフラッシュバックです。
「あの時あの人に悪いことをした」「自分は罪を犯した」
そういう想念が、些細なことをきっかけに一気に膨らみ、いてもたってもいられなくなります。
そういうときは、深呼吸したり、お茶を飲んだりして、まず自分を落ち着かせます。
次に、きっかけになった些細なことと、フラッシュバックした自分の経験を冷静に引き比べて、ふたつの関連の「薄さ」を理性的に認識します。
すると、自分がほとんど関係のないもの同士を無理やり結びつけていることに気づき、少し落ち着くことができます。
ただ、もちろんこれだけでは気分の落ち込みは解消されません。
そこで私は「保留」します。
自分を責める自分に対し、もうひとりの自分を立てて、「まあ気持ちわわかるけど、そのことは後でゆっくり考えない?」「一晩ぐっすり寝て、頭がスッキリしてから考えない?」と説得するのです。
なぜ「保留」するのかというと、時間を置けば気分が回復することが多いからです。
気分が異常に落ち込んでいるときは、ものの見方・考え方が、フラットな気分のときとは変わってしまっています。
こういう状態を専門的には「認知の歪み」というのでしょうが、私の自己観察によると、これは脳が原因と結果を取り違えることで起こる現象のような気がします。
異常な気分の落ち込みがまずあって、その理由を無理に探すことで起こる逆転現象です。
ですから、記憶で自分を責めるよりも、まず気分をフラットに戻すことが重要です。
言葉にする
落ち込んだときに、何かを書くことで救われることがあります。
今私がこの記事を書いている動機もそれです。もちろん承認欲求を満たしたいとか、あわよくば広告収入を得たいとかいう動機もありますが(笑)。
書くことは自分の中に「他者」を導入することでもありますから、上の項で書いた、もうひとりの自分を立てるということに似ています。
自己カウンセリングといってもいいかもしれません。
リード文で「医者や薬のお世話にならずになんとかやり過ごしてきました」と書いたとき、「いや、お前はうまくやり過ごしたつもりかもしれないが、あの人やこの人は、お前のやったことで傷つき、今も苦しんでいるかもしれないぞ」という自己ツッコミが入って、タイプする手が止まりました。
でもすぐ上の「自分を責めない」という項を書いて、モチベーションを保ちました。
ただ、書くという行為は脳や体に負担をかけます。
脳や体の疲労は、気分悪化の直接の原因ですから、注意が必要です。
他人を責めない
気分が落ち込んでいるときは、他人の言動にイライラする事が多くなります。我慢すると余計イライラしますし、爆発させると後悔します。
これはもうどうしようもありません。
いちばんの対処法は、自分をイライラさせる人に会わない、そういう人と距離を置くということでしょう。
しかし、私の自己観察からいうと、ここでも原因と結果が逆転している場合があります。
それは、他人の言動に自分を投影し、その自分にイラついているようなときです。そういうとき私をイラつかせているのは、実のところ他人ではなく、そこに映った自分の姿です。私は他人の言動を通して自分自身を嫌悪し、自分自身をを責めているのです。
昔の職場に、私をとにかくイラつかせる同僚がいました。
私と似たキャリアをもつ同じポジションの人だったのですが、つまらないキャリアを自慢げに語って若い人に先輩風を吹かすかと思えば、私が恥ずかしくて口にできない愚痴や泣き言を平気でこぼすのです。
今から振り返れば、私のイライラの「ご本尊」は、自分のキャリアに対する劣等感と、ポジションに対する不満でした。
この項の見出しは「他人を責めない」としましたが、正確に書けばこうなります。
他人にイライラするときは、他人を責めてもまず解決しません。責めて解決するなら、そもそもイライラすることもないでしょう。
他人を責めたくなったら、そこに自分の姿が投影されていないかを冷静に見て、そういう自分を嫌悪したり責めたりしないようにする方法を考えたほうが得策です。
自分を赦す
ここまで書いたことをまとめると、気分が落ち込んだときの対処法には、身体的アプローチと心理的アプローチがある、ということになると思います。
身体的アプローチは対症療法的なものですから、ひとつにまとめることはできませんが、心理的アプローチについては、究極的な言葉に集約できると思います。
自分を赦すということです。
「なんとも都合のいい考え方だ」という声がどこからか聞こえてきますが、その声こそ「自分を許さない自分自身の声」なのです。
自分も他人も責めないという考え方の行き着くところは、どう考えても「自分を赦す」でしかありえません。
これは、親鸞聖人の有名な言葉「善人なおもて往生をとぐ いはんや悪人をや」の中に内包されている考え方だと、私は勝手に解釈しています。
「善人なおもて…」を今の言葉にすると「善人ですら極楽に行けるのに、悪人が行けないことがあろうか」というふうになります。
初めて聞くと、善人と悪人が取り違えられているんじゃないかと思いますが、でも、これでいいのです。
極楽にいる神様(阿弥陀如来)のいちばんの願いは人々を救うことである。一方、最も救われるべきなのは悪人である。だから、善人すら行ける極楽に、悪人がいけないことがあろうか。
親鸞聖人の言葉を私はこう解釈しています。そして、自分自身を善人ではなく悪人だと考えて受け取っています。すると、この言葉は究極の「赦し」となって私の心を救ってくれます。
私は浄土真宗の信者ではありません。実家が浄土真宗の寺の檀家でしたので、法事ではお経を読まされたりしましたが、若い頃には何の興味も持てませんでした。親鸞聖人の言葉も学校で覚えましたが、心には響きませんでした。
それがあるとき急に、私の心に手を差し伸べたのです。
このブログのドメイン名「naomote.com」は、「善人なおもて…」の「なおもて」からいただきました。
独りよがりの解釈で勝手に悦に入ってる。またそういうう声が聞こえてきますが、構いません。
親鸞聖人の言葉を後ろ盾に、私は私に言い続けようと思います。
「お前を赦す」と。
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